長い坂を登っていくと、三の曲輪に入る門があったであろう石積みがあります。
きれいに切りそろえられた長方形の石組みは、見ていても気持ちの良いくらい整っています。往時は切り込まれたようになっている凹みに沿って木の柱が立ち、その上に櫓がのっていたのかもしれません。
三の曲輪には色々な遺構がのこっています。
勝連城自体は現在も発掘調査で、中国や日本製の陶磁器類が多量に出土しており、阿麻和利をはじめとする城主が海外との交易が盛んだったと推測されます。これらの出土品から、12〜13世紀には築城されたようで、言い伝えなどでは初代城主が英祖王統大成王五男、その後4代続いて6代目に伊波按司の六男が迎えられています。9代目の城主である茂知附按司は圧政を行い阿麻和利によって倒されたといわれ、彼が10代目の城主となって、勝連はより栄えることとなったといわれています。
勝連城について書くには、どうしてもこの最後の城主である阿麻和利について少しだけ述べる必要があるかと思います。
彼の出生に関してはいくつかの説ありますが子供の頃は身体が弱かったようで、一説によると北谷で生まれ、小さい頃は身体が弱いために育たぬものとして山 に捨てられたといわれています。
彼は一人で生きていくなかで智恵と力を付け、勝連にたどり着いた頃には村人たちに漁網の作り方を教えるなどして慕われるようになりました。
や がて茂知附按司に取り立てられますが、計略を用いて勝連按 司の座を奪い、若くして勝連城主となった阿麻和利は、海外貿易などにより力を付けていきました。
そしてその力を無視できなくなった琉球王尚泰久は、自分の娘百十踏揚 を嫁がせます。
ここで阿麻和利の乱について少しだけ詳しく触れてみましょう。
第一尚氏6代目の泰久王の時に、中城城主の誤佐丸が勝連城主阿麻和利が兵馬を整えて謀反の気配があると自分の城でも防戦の準備をしていました。そのタイミングを見計らい、逆に阿麻和利が王に護佐丸に謀反の動きありと告げます。
王は中城城に様子を探りに行かせた所、軍備を整えていたので驚いて阿麻和利に護佐丸討伐を命じました。しかし、 尚氏に忠誠を誓っていた護佐丸は、これにほとんど抵抗せず妻子とともに自害します。
その後まもなく、阿麻和利は中山に攻め入ろうとしましたが、妻であり泰久王の娘でも有った百十踏揚(モモトフミアガリ)に仕える大城賢雄に知られ、両者は勝連城をでて首里城に駆け込みました。
この時に大城を追って阿麻和利軍は追走しましたが、中山の軍により敗退、その後泰久王は勝連城をせめて勝利を収めました。1458年のことです。
というのが琉球王国の正史である中山世譜や球陽に載っている話ですが、実際は護佐丸、阿麻和利ともに海外貿易で力をつけていた時期で、尚氏とともに三つ巴の政争が有ったということなのでしょう。
阿麻和利が滅ぼされたことによって、首里城を中心とする中山の王権はいちだんと安定することになります。
一部
比嘉朝進氏著:首里城王朝紀を参考にしています。
三の曲輪入口の石組み
当時の想像図:うるま市教育委員会パンフレットより
発掘れた貨幣や磁器:うるま市教育委員会パンフレットより
すり鉢状遺構:二つあり、粘土も使われていることから水を貯めて置いたものかと言われています。
肝高の御嶽
ウシヌジガマ
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