沖縄海軍壕跡(旧海軍司令部壕)2

戦争が何なのかを今に伝える施設です。

手榴弾の痕が生々しく残っています。
 右の写真は、兵士たちが戦いのために出て行った出入り口ですが、現在はこのように扉で閉められています。ここから出陣した兵士のほとんどは、2度と帰る事が無かったと語られています。
  結局ここに残った兵士たちは、米軍に追い詰められる戦況の中で自決せざるをえなくなってきます。  司令官室には今でも壁に塗られた漆喰に、自決のために使用した手榴弾の破片によってつけられた多数の跡が残っています。
  大田実也氏は、自決する数日前に下記のような電文を打ちました。この電文の内容は、この建物の前に有る慰霊碑の前に仁愛の碑として残されています。 内容は現代語訳にして、写真とともに記しておきました。
 それから月日が経ち、沖縄も日本に返還されましたが、いまだに広大な面積の米軍基地をかかえ、米兵がいなければ起きるはずの無い犯罪や事故にさいなまされています。 日本政府も沖縄に基地がある事はやもなし、と言う姿勢すら変わっていません。

海軍壕から出陣するための出口海軍壕の壁に残る自決の手榴弾跡
大田司令官の電文
 沖縄県民の実情に関しては県知事より報告すべきことですが、県にはすでに通信能力がなく、第32軍司令部も又通信できないため、私は県知事の依頼を受けたものではないのですが現状を見過ごすことができず、知事に代わって緊急にお知らせします。 沖縄本島が敵に攻略され始めて以来、陸海軍は防衛戦に専念せざるを得なくて、県民に関してはほとんど顧みるにことができませんでした。しかし、私が知る範囲に於いては、県民は青壮年の全部が防衛のための召集に応募し、残された老幼婦女子は相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産の全部を失い、わずかに身体一つで軍の作戦に差し支えない場所の小防空壕に避難したり砲爆撃下でさまよい、風雨にさらされながら乏しい生活に甘んじています。 
  しかも若い婦人は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊への参加すら申し出る者さえいます。
 敵が来れば老人子供は殺さ、婦女子は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子生き別れになるのを覚悟で、娘を軍隊に預ける親もあります。 看護婦に至っては軍移動に際し、衛生兵が出発したため身寄り無い重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は真面目にして一時の感情に駆られたものとは思えません。 さらに軍に於いて作戦の大転換で、自給自足で夜中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定されたため、輸送手段が無のことから、黙々として雨中を移動しています。
これは、要するに陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫して勤労奉仕、物資節約を強要せられたにもかかわらず、ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きながら、遂にこの戦闘の最後を迎えてしまいました。  沖縄の実情は言葉ではたとえようもありません。一本の木、一本の草さえも焦土と化しています。
 食糧も6月一杯しかもたない状況だと言う事です。
沖縄県民はこのように戦いました。
県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことをお願いします。

大田司令官の電報
  自分の命もあと幾日かと言う激戦状況下、県民を思いやった彼の言葉には計り知れない重さがあります。
今の日本政府ではこのような事実さえも忘れ去られ、新たな基地を沖縄に強制しようとし、他県並みの基地負担と言える日がいつ来るのか全く見えないまま、毎日住宅街の上を轟音と共に軍用機が飛び回っています。 沖縄ではまだ戦争は終わっていません・・・

と言う事では有りますが、これから又戦争への道を歩まないためにも、沖縄においでの際には是非立ち寄ってほしい施設の一つです。

    
海軍壕公園から見た那覇の街
関連情報: ひめゆり平和祈念資料館 平和祈念公園

Copyright (C) Okinawa information IMA All Rights Reserved   更新: 2012年2月17日