===================================================================
.・.*・. *・ . . . .・* .・* ・ .* ・.* ・* .
* . . . ・ . ・ .
.・.*・. 沖縄最新情報 I M A . Vol.47 2000.6.14
*
・* . ・ . ・ . ・. *・ . * .・* .・* .*
.*・. *・ メールアドレス変更します。sai@nirai.ne.jp. *・ ..
沖縄情報IMA http://www.okinawainfo.net/
===================================================================
このメルマガは一切スポンサー等つけず、非営利で運営しております。
今 回 の お 題 目
■福州園をひとまわり
□沖縄のオバァ さん
■沖縄の歴史(3)
□ちょっとだけサイト整理しました。
===================================================================
■福州園をひとまわり
那覇市の久米にある中国式庭園です。那覇市と福州市で友好都市宣言
10周年を記念してつくられた庭園で、なかなか本格的。市街地の真中に
有るのに、別の空間を作り上げています。水もうまく利用されており小さ
な滝の裏側に回ることもできるようになっており、水流越しに見る景色も
一風変わっています。自然がいっぱい取り入れられており、那覇で時間が
2,3時間余ったときなどにゆっくり楽しめるスポットです。
入園料も315円と安いですよ。
===================================================================
□沖縄のオバー さん
ゆっくり南部の道を自動車で走っていました。ウージー(さとうきび)
畑が両側に続く農道です。天気も薄日がさして気持ちのいい風が開けた
ウィンドウから流れ込んできます。道の向こうの左側にオバーが一人、
日傘をさして立っていました。道が細いので自動車のスピードを落とし
て通り過ぎようとしたとき、オバーは大声で何か言いました。なんだろう
と車をとめると、オバーは急ぎ足で車の窓まできて
「ニイサン、車乗ろうね!」といってドアを開けようとしています。
「どこまで行くんですか?」と聞くと
「佐敷。」といってもうすでに助手席にのりこんでいるでは有りませんか。
私の行く方向と違う!逆のほうじゃないか!と思いつつ、まあいいか的な
気分で、先の空き地でUターンして佐敷に向かったのでした。
「ニイさん、ヤマトンチュね?」から始まる一連の質問攻めに適当に答え
て佐敷の町に近づくと
「ハイ、そこでいいさ。」と細い道の角でヨイショとドアを開けて彼女は
車から降りて
「ありがとね。」と言い、すたすた路地に歩いていきました。
急いでいる時は、オバーの掛け声にとまらないようにしよう!と考えなが
ら又車をUターンさせたのでした。
===================================================================
■沖縄の歴史(2)
英祖は、農業に力を入れる政策を推し進め、租税の公平化をはかり、
国力も徐々に充実してきました。このころ、日本では元寇が起こり、文
永、弘安の役(1274,1281)で日本上陸に失敗した元軍は、12
91年、沖縄に上陸しようと試みたが英祖の軍に撃退されました。
この英祖王統の後継は大成、英慈と続き、平穏なときが流れました。
しかし、4代目の玉城は、酒色におぼれ道楽三昧の生活をおくっていたの
で、家臣、民衆の心は彼から離れ、勢力圏はおおむね三つに分かれてしま
いました。
南部の知念、摩文仁、喜屋武、具志頭その他は南山王と呼ばれていた大
里按司。北部の国頭、羽地、金武その他を北山王と呼ばれていた今帰仁按
司が実際支配していました。
玉城の支配地は那覇、浦添、中城、読谷などになってしまいました。
この頃は、互いに領地の取り合いで、争い事が絶えず沖縄の戦国時代だっ
たのです。
1336年玉城王は41歳で死亡し、西威王が後を継ぎましたが、彼はま
だ10歳。実質的には彼の母親が政権を握ることになったのです。
しかし、公平とは言いがたい施政に、多くの部下達は一人の人物に注目し
ました。
これが前号で掲載した現在森川公園の中にある泉にまつわる天女の子供と
いわれる察度(さっと)です。
★関連情報
http://www.okinawainfo.net/ymorikawa.htm
1349年、西威王は若くして病死し、周囲からは後継に察度を推す声が
上がり、彼の母も抗しきれずに翌年、察度は王位に就くことになりました。
これが察度王統の始まりです。
1372年、察度王は当時の中国である明と関係を持つことが、勢力を維
持拡張するために有効であると考え、貢物を載せた進貢船の第一号を明に
派遣し、中山王の称号と暦や船をもらい帰ってきました。
以降、明国との友好関係を長く続けることになったのです。
その後、多くの中国人が沖縄来るようになり、久米村(現在の那覇で、当
時は島になっていました。)に住み着くようになりました。
この中に船を作る技術者もいて、爬龍船を造り、明から帰国した留学生達
と競争するようになったのが、ハーリーの始まりといわれています。
さて、次回は意外に短く終わる察度王統とその後に登場する第一尚氏王統
の話に続きます。
===================================================================
■ちょっとだけサイト整理しました。
サイトの方、ちょっとだけ整理しました。継ぎ足し状態で統一感がなく
なってたのが気になって、作業にかかって約1ヶ月。ほとんどのページを
いじり、新しいコンテンツも増やしました。こんなにした方が良いな、な
んてご意見いただければとってもうれしいです。
===================================================================
編集後記
沖縄の歴史、今回で連載4回目になります。
サイトには、すべてバックナンバーを載せますので、つながりもわかっ
ていただけると思います。話は変わって、ヤフージャパンの雑誌に沖縄
情報IMAが紹介されました。今度日経ナビにも掲載されるので、サイ
トがつながりにくくなったらごめんなさい。後、掲示板が無料バージョ
ンなので、夜間つながりにくいことをお詫びいたします。
何とかしなくっちゃね・・・
===================================================================
発行責任者:ナイチャー小林 sai@nirai.ne.jp メール歓迎!
============================================================ END