琉球処分以降

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1871年、日本で廃藩置県が行われ、それに伴い琉球は鹿児島県の管轄下に置かれるようになります。 その後、続いていた琉球の王朝制度が問題になり始め、俗にいわれる琉球処分が強制的に行われました。
清国への朝貢を差し止め、王は東京に住まう事。そして首里城は開け渡し王府は解体する事、などがその内容でした。
そして、1879年、政府は400名の部隊で首里城に乗り込み沖縄県設置を宣言。
3月31日には尚泰王が首里城を明渡し沖縄を離れる事になったのです。
長い間続いた琉球王国独自の歴史は、ここで強制的に幕を閉ざされてしまった訳です。

その後、沖縄県民が他の県の県民と同じ、国民としての権利を得るまでには、時間がかかりました。
 沖縄は太平洋戦争に巻き込まれ、本土決戦のための捨石と位置付けられて、国内唯一の大規模な地上戦が行われ、多くの犠牲者を出しました。
ウチナーンチュも皇国史観を叩き込まれ、軍属の偏向教育によりアメリカは鬼だ!人間じゃない!と思い込み、捕虜になるより自決を選ぶ県民が多くいたそうです。
怖くて逃げ出すような者は、日本軍の兵隊により射殺されたケースもまれではなかったようです。
自分の子供を殴り殺してから、自殺する親。
手榴弾で集団自決した学徒の話。

沖縄では、このような体験を今でも語りつづけるお年寄りがいます。
沖縄県民がこの戦争で約12万人死亡しました。
これには、餓死したり病死した数は含まれておらず、実際はかなり上回ったものと思われます。時間稼ぎの捨石作戦が被害を広げていったのです。
  終戦後、約30万人の県民はアメリカ軍の収容所で運搬作業などをさせられましたが、食料等の配給は受けていました。
1945年になると、ようやく人々は自分達の村に帰れるようになりましたが、どこも焼け野原の状態で、復興には多大な努力が必要でした。県民が収容所にいる間に、アメリカ軍は広大な土地を軍用地として接収していました。1948年に通貨がB円と呼ばれる軍票に統一された頃、ようやく人々の生活にも活気が見え始めてきたのです。
 世界情勢が緊迫してくると、アメリカ軍は沖縄を太平洋の要石として位置付け、より基地機能の拡大をはかりました。
県民は、強引な土地使用の条件の改善を求めて「金は一時、土地は万年」の合言葉で島ぐるみの闘争を行い、1958年には絶対的権力者の軍から譲歩を勝ち取ったのです。
この事が、復帰運動につながっていきました。
  1972年5月15日、27年間のアメリカ支配から、沖縄は日本の県として生まれ変わりました。
しかし当時の新聞は、 「今祖国に帰る、変わらぬ基地、続く苦悩、沖縄県の厳しい前途、復帰元年、不安の幕開け、自治に新たな苦悩」の見出しで復帰を伝えました。
沖縄にとって、祖国復帰とはなんだったのか、今、歴史を通して改めて考える時期ではないでしょうか。

その後、海洋博が開かれ、交通は1978年7月30日に本土と同じ車は左、人は右となり、現在にいたっています。


…で、最近 の沖縄。

沖縄はその亜熱帯の珊瑚礁の海に囲まれている環境から、他府県の観光客が来沖してくれています。
しかし、その陰ではいまだに米軍基地が広くない県の多くの土地を占有し、米兵の 女子学生に対する婦女暴行事件などの不祥事 、基地があるゆえの沖縄国際大学へのヘリコプター墜落のような事故が多発している事も事実なのです。 そんな中で、その基地を一部の沖縄県民が、当座のお金と引き換えに誘致する、という信じられない事態も起きています。

琉球の人たちが、歴史のなかを色々な外圧に流されたように見えて、本当の所はめんめんと受け継がれてきた琉球文化。
そんな中、これから、大和、アメリカの文化に染まりつつあるウチナーンチュも、きっと命ドゥ宝!の深い意味を心の奥にしまいながら、これからも独自の文化を築き続けてくれるものと、私は確信したいと思います。


メルマガにて連載させていただきました文を基本に構成されておりますが、細かい誤り等は修正、又新しく加筆させていただいております。 参考文献:沖縄県の歴史(沖縄時事出版)琉球王国の歴史(月間沖縄社)琉球王朝(成美堂出版)沖縄の歴史散歩(山川出版社)

 
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