天久宮由来
天久宮の創建は成化年間と伝へられる。(尚圓、尚宣威、尚真王時代、西暦1465~1487年)

昔、銘苅村に銘苅の翁子と言う者が住んでいました。
ある日の夕方、彼は天久野に立派な法師を従へた気高い女の人が山上よりおりて来るのに出会いました。
中腹には小洞窟があり、井戸から水が湧き出て流れています。 翁子が法師に女性は誰なのかと尋ねると、法師は「自分は山の中腹に住んでいるが、女人は山上の森に住む者で名前は分からない。」と答ました。 翁子は不思議に思って気をつけていると、ある時女人が洞窟に入ると中途で消えていきます。驚いて事の次第を王の臣下に伝へると、それを聞いた王は虚実を試そうと役人に命じて洞窟に向って香を供へたところ、それが自然に燃えました。 その後「我は熊野権現なり、衆生の利益の為に現はれたり。 かの女人は國家の守護神弁財天である。」との神託が降りました。
衆生は神変の加護によりて妄念を解くことができようと、神徳を重んじて國家安全、萬民豊楽の基のために、その前に社殿を建立して祭ったといいます。
1703年社殿の改修工事が行われ、1734年には今の聖現寺北方に建っていた社殿を現在地に移設。 昭和19年の空襲で社殿を焼失し、戦後は御嶽形式により奉祀。 1972年本殿を建立、奉鎮祭斎行。 本土復帰の5月15日宗教法人となる。 同日神社本庁に包括され、 現在に至り昔の素晴らしい社殿の復興と向後の発展を期せむとす。
この文は鳥居横の掲示板を参考にしました。