勝連城跡・沖縄の世界遺産
Zakimi Castle Ruins

勝連城跡イメージ
 勝連城跡は12~14世紀にかけて築城されたといわれ、最後の城主が歴史上有名な阿麻和利。地元の人たちから肝高の亜麻和利と呼ばれて慕われ、中国、東アジアなどとの交易を盛んにして地域を栄えさせましたが、1458年に琉球王府により滅ぼされました。 城壁の石組みは建築資材などとして持ち去られて荒れていましたが、琉球政府当時から地道な発掘作業が行われ世界遺産に指定されたこともあり、現在は往時の姿を取り戻しつつあります。 下から見上げた勝連城跡

三の曲輪

勝連城跡航空写真 少し長い坂を登って行くと三の曲輪に入る門があった石積みがあります。 切りそろえられた長方形の石組みは、見ていても気持ちの良いくらい整っています。
往時は切り込まれたようになっている凹みに沿って木の柱が立ち、その上に櫓がのっていたのかもしれません。
勝連城跡は現在も発掘調査で、中国や日本製の陶磁器類が多量に出土しており、阿麻和利をはじめとする城主が海外との交易が盛んだったと推測されます。
勝連城跡三の曲輪入口付近出土品と入口付近の想像図
三の曲輪には色々な遺構がのこっています。
すり鉢状遺構すり鉢状遺構
二つあり、粘土も使われていることから水を貯めて置いたもの考えられます。

肝高の御嶽肝高の御嶽:神人が豊作や大漁を祈った場所です。

勝連城の歴史と阿麻和利

 言い伝えでは初代城主として1309年に英祖王統大成王五男が勝連城主として即位、その後4代続いて6代目に伊波按司の六男が迎えられています。9代目の城主、茂知附按司は圧政を行い阿麻和利によって倒され、彼が10代目の城主となってから、勝連はより栄えたそうです。 
勝連城について書くにはどうしても最後の城主、阿麻和利について少しだけ述べる必要があります。 彼の出生に関してはいくつかの説ありますが、一説によると北谷で生まれ小さい頃は身体が弱いために育たぬものとして山に捨てられたといわれています。
彼は一人で生きていくなかで智恵と力を付け、勝連にたどり着いた頃には村人達に漁網の作り方を教えるなどして慕われるようになりました。 やがて茂知附按司に取り立てられますが、計略を用いて勝連按司の座を奪い若くして勝連城主となり、海外貿易などで力を付けていきました。そしてその力を無視できなくなった琉球王尚泰久は、自分の娘である百十踏揚を嫁がせます。
阿麻和利の乱  
第一尚氏6代目の泰久王の時、中城城主の護佐丸が勝連城主阿麻和利が兵馬を整えて謀反の気配があると思い、自分の城でも防戦の準備をしていました。そのタイミングを見計らい、逆に阿麻和利が王に護佐丸に謀反の動きありと泰久王に告げます。
王は中城城の様子を探らせた所軍備を整えていたので驚き、阿麻和利に護佐丸討伐を命じました。 尚氏に忠誠を誓っていた護佐丸は、ほとんど抵抗せず妻子とともに自害します。
 
その後まもなく、阿麻和利は中山に攻め入ろうとしましたが、妻であり泰久王の娘でも有る百十踏揚(モモトフミアガリ)に仕える大城賢雄に知られ、両者は勝連城をでて首里城に駆け込みました。 これを追って阿麻和利軍は追走しましたが、中山の軍に敗退、その後泰久王は勝連城を攻めて勝利しました。1458年のことです。(京都では足利義政が内大臣にった年)

というのが琉球王国の正史である中山世譜や球陽に載っている話ですが、実際は護佐丸、阿麻和利ともに海外貿易で力をつけていた時期で、尚氏とともに三つ巴の政争が有ったということなのでしょう。地元では今でも阿麻和利はなかなかの人気者です。 阿麻和利が滅ぼされたことで、首里城を中心とする中山の王権は一段と安定することになります。

以上一部 比嘉朝進氏著:首里城王朝紀を参考にしています。
勝連城跡
料金
無料
駐車場
あります-無料
営業時間
9:00~18:00 年中無休
管理
勝連城跡休憩所
オフィシャルサイト
http://www.katsuren-jo.jp/
住所 沖縄県うるま市勝連南風原3908 098-978-7373
空港から約41km 自動車で約1時間(高速利用-沖縄北インター)


※勝連城跡の見学には、概ね60分もあったら見て回れます。少し長めの坂や階段もあるので、出来たら軽装が良いかも。駐車場横にある休憩所は、展示物もあるしゆったり休む事もできます。

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