首里城は沖縄世界遺産中最大の規模で、多くの人が来沖すると一回は立ち寄る場所。建物の再現も徐々に進み、往時の華やかな雰囲気を感じる事ができるかと思います。
それでは、順路に沿ってご説明しましょう。
首里城の歴史
(戦前の首里城と現在の首里城) 首里城がいつ造られたのかがははっきり解っていませんが、三山時代には中山の城として存在していたのでおそらく14世紀の初め頃に作られたのではないかと考えられます。 三山統一を果たした琉球王国の中心として長い間機能していましたが、文献によると現在までに何回か火災にあい、1453年に王位後継者争いの志魯布里の乱で多くの部分が焼失。
1660年、1712年にも火災に見舞われて、そのつど再建されてきました。
その建物も第二次大戦で日本軍が首里城を利用していたため、対戦末期の1945年5月、アメリカ軍の攻撃を受け破壊されました。
戦後はこの場所に琉球大学が造られて多くの遺構も破壊されてしまいましたが、1958年に守礼門が再建されたのをきっかけに再建の機運が高まり1972年の日本復帰後、歓会門やその周辺の石垣なども復元。 1989年には本格的な発掘調査や正殿や周辺の門などの復元作業が始まり、1992年、やっとほぼ今の状態にまで再建されてされて首里城公園としてオープンされました。
2000年には首里城跡として世界遺産に登録され、現在でも正殿裏に当たる部分の調査、復元がすすめられています。
守礼の門
首里城に来てまず目に付く守礼門。美しい中国風の門で、二千円札にも絵柄として使われています。昼間は傍に写真屋さんと琉装の女性が何人か記念写真のために待機していたりで周辺はにぎやか。
守礼門が作られたのは第二尚氏4代目尚清王の時代(1527-1555)といわれ、現在守礼の国と書かれている扁額は、「待賢」や「首里」と書かれていたそうで、第二尚氏6代目尚永王(1573-1588)の時、冊封時に明皇帝の親書に「琉球は守礼の邦と称するに足りる」との言葉を元に初めて掲げられたと言われ、その後冊封使が来るような場合にだけこの額が掲げられていたと言われています。その後第二尚氏9代尚質王(1648~1668)の時代から常掲する様になりました。
沖縄戦で破壊され、現在の門は1958年(昭和33)に復元されたものです。