渡嘉敷島イメージ

渡嘉敷集団自決跡地

315名の方々が命を失った場所

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戦争がどのようなものだったかを思い知らされる場所です。
渡嘉敷港から安波連に行くのと反対方向山側に進んでいくと、広い敷地を持つ青年の家につきます。
青年の家をつ突き抜けるように進むと、左手にゲートが閉められた施設があり、そこの入り口を開けてはいると戦争の悲惨を伝える集団自決跡地があります。 ここについての下手な説明は無用かと思いますので、碑に書かれていた文をそのまま掲載させていただくことにしました。
この台地後方の谷間は去る大戦において住民が集団自決をした場所である。
米軍の上陸により追いつめられた住民は友軍を頼ってこの地に集結したが敵の砲爆は熾烈を極め遂に包囲され行く場を失い、刻々と迫る危機を感じた住民は 「生きて捕虜となり辱めを受けるより死して国に殉ずることが国民としての本分である」として昭和20年3月28日祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲壮な決意をした。兼ねてから防衛隊員が所持していた手榴弾2個づつが唯一の頼りで 親戚縁故が車座になり1ケの手榴弾に2、30名が集まった瞬間不気味な炸裂音は谷間にこだまし清流の流れは寸時にして血の流れと化し 老若男女315名の尊い命が失われ悲惨な死を遂げた。 昭和26年3月この大戦で犠牲になった方々の慰霊のためこの地に白玉の塔を建立したが 米軍基地となった為に移設を余儀なくされた。
時移り世変わってここに沖縄の祖国復帰20年の節目を迎えるに当り過去を省み戦争の悲惨を永く後世に伝え恒久平和の誓いを新たにするためここを聖地として整備し碑を建立した
平成5年3月28日     渡嘉敷村

 こその横には、集団自決の実相・ここであったこと、と題するプレートがあり、碑に書いてあった文よりもより当時の様子を伝えていました。

1945年4月2日
ロサンゼルス・タイムス朝刊から

侵攻軍、日本民間人の集団自殺を発見 「野蛮なヤンキー」の噂で「拷問」より死を選ぶ日本人達 琉球列島、3月29日(遅)(AP)?

  米国の「野蛮人」の前に引き出されるよりも自殺する方を選んだ日本の民間人(注、渡嘉敷島の人々)が、死体あるいは瀕死の状態となって折り重なった見るも恐ろしい光景が今日慶良間列島の渡嘉敷島に上陸した米兵達を迎えた。
最初に現場に到着した哨戒隊に同行した、ニューヨーク市在住の陸軍撮影兵アレキサンダー・ロバーツ伍長は「いままでに目にしたものの中で最も悲惨」と現場の様子を表現した。
「我々は島の北端に向かうきつい坂道を登り、その夜は露営した。闇の中に恐ろしい叫びや鳴き声うめき声が聞こえ、それは早朝まで続いた」
と彼は語った。
散乱する死体
「明るくなってから、悲鳴の正体を調べに行くために二人の偵察兵が出ていった。彼らは二人とも撃たれた。その少し前、私は6ヶ所8ヶ所で手榴弾が炸裂し炎が上がっているのを見た。
開けた場所に出ると、そこは死体あるいは瀕死となった日本人(注、渡嘉敷島の人々)で埋めつくされていた。足の踏み場も無いほどに密集して人々が倒れていた」
「ボロボロになった服を引き裂いた布はしで首を絞められている女性や子供が少なくとも40人はいた。聞こえてくる唯一の音は怪我をしていながら死にきれない幼い子が発するものだった。人々は全部で200人近くはいた。」
「細いロープを首に巻きつけ、ロープの先を小さな木に結びつけて自分の首を絞めた女性がいた。彼女は足を地面につけたまま前に体を倒し窒息死するまで首の回りのロープを強く引っ張ったのだ。
彼女の全家族と思われる人々が彼女の前の地面に横たわっており、皆、首を絞められ、各々汚れた布団が掛けられていた。」
さらに先には手榴弾で自殺した人々が何十人もおり、地面には不発の手榴弾が転がっていた。
日本兵(注、島人の防衛召集兵)の死体も6体あり、また他にひどく負傷した日本兵(注、島人の防衛召集兵)2人いた。」 「衛生兵は負傷した兵士らを海岸へ連れて行った。
後頭部に大きなV字型の深傷を負った小さな男の子が歩き回っているのを見た。あの子は生きてはいけない、いまにもショック死するだろう、と軍医は言った。本当にひどかった。」
軍医達は死にかけてる人々にモルヒネを注射して痛みを和らげていた、とロバーツ伍長は語った。
負傷した日本人(注、渡嘉敷島の人々)を海岸の応急救護所まで移そうとしている米軍の担架運搬兵らを、道筋の洞窟に隠れていた一人の日本兵が機関銃で銃撃した。歩兵らがその日本兵を阻止し、救助活動は続けられた。
質問に答えられるまでに回復した日本人達(注、渡嘉敷島の人々)は米国人は女は暴行、拷問し男は殺してしまうと日本兵が言ったのだと通訳に話した。彼らは、米国人が医療手当をし、食料避難所を与えてくれた事に驚いていた。
自分の娘を絞め殺したある老人は、他の女性が危害を加えられず親切な扱いを受けているのを見て悔恨情にさいなまれていた。
渡嘉敷島北部地図集団自決跡地入口ゲート
集団自決跡地集団自決跡地祈念碑集団自決跡地碑
集団自決跡地にあるプレート
この聖地を訪れた日は真っ青な空が広がる晴天でしたが、このあたりに入った途端、今まで吹いていた気持ちのいい風もとまり空気が重く澱み、いかにも周囲とは違う雰囲気が凝縮しているように感じられました。  もう2度と人が人を殺しあう戦争というものを起こしてはならない、という当たり前のことが実現されていない世界のふがいなさを思いながら、この地をあとにしました。

関連情報:慶良間の沖縄戦  白玉の塔


※教科書問題などでなにかと話題になった沖縄の集団自決。
直接軍の指令があったかどうかなどは枝葉末節の話で、本来問題にされるべきはなぜ大戦が起きたのか、そこで日本は本当に正しい道を歩いたのか、戦前、戦時中の国民に対する皇民化教育を推進してきた政府が、きちんとした自己批判をすることができたのか、ということではないでしょうか。
そしてそれよりも大切な事は、現在未来に同じ過ちを繰り返さない決意が全ての日本人にあるかどうかということだと私は思います。
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