渡嘉敷島イメージ

渡嘉敷白玉の塔

集団自決の慰霊塔です

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集団自決跡地と同様に、渡嘉敷港から青年の家を目指して山側に進んでいくと、右手にある小高い丘があり、その下に車を止めてさほど広くない階段を登っていくと、すぐに広い場所に出て、手前に観音像が祭られた奥にこの慰霊塔はあります。
その塔の根元には、ここ渡嘉敷で無くなった戦争被害者の方々の名前が彫られた石版がありました。
白玉の塔への階段
1943年3月23日、アメリカ軍は数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、日本軍施設を破壊した後、26日には座間味の島々へ、27日には渡嘉敷島に上陸占領し、沖縄本島上陸作戦の補給基地として確保しました。 日本軍と、住民は山の中に逃げこみましたが、北端の西山に追込まれ、28日かねて指示されていたとおりに、集団自決しました。
手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で首を絞めたり、山火事の中に飛込んだり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていったといわれます。
  その忌まわしい出来事の6年忌を迎えた昭和26年3月28日、住民集団自決の現地西山(現在の集団自決跡地)で白玉 之塔の除幕式と合同慰霊祭が行われ、戦没者(住民368柱、日本軍人76柱、軍属87柱、防衛隊41柱)の霊を島守りの神として祭られていました。
今有るものは、昭和35年西山が軍用地に接収されたため、昭和37年4月19日に現在の場所に移動して新しく建立されたものです。
毎年3月28日を慰霊の日(住民玉砕の日)と定めて慰霊祭が催されています。



関連情報:慶良間の沖縄戦  集団自決跡地
渡嘉敷島北部地図
白玉の塔全景白玉の塔アップ

※慰霊碑さえ統治国の事情で移動せざるをえなくなった渡嘉敷島の当時の様子は、いかほどかと慮るものがあります。 年は流れ、現在は綺麗な珊瑚の海を求めてシーズンには多くの人たちがこの島を訪れます。
悲惨な事実は歴史のかなたに霞んで行ってしまうのかも。
もし、あなたが渡嘉敷に行って時間が取れるようでしたら、是非慰霊碑を訪ね、慰霊のための合掌をしていただけたらと思います。
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