慶良間イメージ

慶良間の沖縄戦

米軍が初めに上陸したのが慶良間でした。

集団自決跡地 白玉の塔 慶良間の沖縄戦
 1945年3月、グアム島を発進した沖縄攻略部隊は7個師団は沖縄諸島に向かっていました。
今以上に美しい慶良間の海と自然に囲まれた島々は、23日には激しい空襲、翌24日からは艦砲射撃もさらされて、3月26日には慶良間諸島に上陸、、そして29日までには慶良間列島全域を席巻し、 「南西諸島における日本のすべての行政権,司法権を停止し,最高行政の責任は占領軍司令官の権能に帰属させる」というニミッツ布告が交付されたわけです。
沖縄戦慶良間諸島地図

その何日かの間に、集団死という悲惨な出来事が起こりました。
慶良間には太平洋戦争開戦以降日本兵が駐留し、特攻艇の基地をいくつか作り米軍の来襲に備えていたのですが、実際には特攻艇は機能できませんでした。当時は皇民化教育が徹底され、島民は日本兵に協力していたようで、「鬼畜米英であるから、アメリカ軍につかまれば女は犯されてから殺され、男はなぶり殺しにされる。」という考えが徹底していて、米軍が上陸してきて日本兵の抵抗も米軍の前には無力だということを目にした人々は、何箇所かに集まり、手榴弾、刃物、縄などで家族を殺し、自ら命を絶っていきました。
その人数は渡嘉敷、座間味の両村合わせて700人を超えたといわれています。
この問題に関しては、以前日本軍の自決強要があったか否かが問題になったことが有りますが、それはこの事実の前に大した意味は成さないと私は考えますので、ここで細かな事実関係に触れるつもりはありません。
一番大切なのは、その事実です。
偏向教育、誤った情報が彼らを死に追いやったことは紛れも無い事実だと思うからで、報道、教科書検定、情報統制などの影が見え始めている昨今、彼らの死を無駄にせず同じ悲劇を繰り返さないためにも、我々一人一人がしっかりとした平和、そして自由への理念に基づいて社会、とりわけ政治を注視していかなくてはいけないと思います。

憲法第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない…以下略

1945年8月に米軍は部落代表を招集して戦後初の列島自治制施行を布告し列島議員の選挙と列島長の選挙を施行して住民の治安が維持されました。翌年4月には同制度も廃止になり、5月村長と村政委員が任命されて行政組織が整えられはじめます。
1948年、新選挙法による村長、議会議員の選挙が行なわれて7月には市町村制が公布されてやっと本格的に自治が確立し現在に至っています。


以下は以前テレビ番組で知ったことです。
渡嘉敷島の東海上に前島という島があります。しばらく無人島でしたが、何年か前に一家族が島に戻り生活をしているようです。戦前はここにも人が住んでいました。
  ここでは日本兵がいるからアメリカ軍も攻撃してくるのだ、と言う事で駐屯を拒絶するという、当時ではとても困難な意思表示をしてそれを貫きました。
この島にも米軍は上陸しましたが、日本軍がいないことがわかると「この島は砲撃もしないし、捕虜もとらない。安心していつもの通り生活をしてください。」と言ってそのまま引き揚げたということです。
強大な戦力ではなく無防備が最高の命を守る防衛になったわけで、 現在の基地強化による日本の防衛なるものを見ていると、色々考えさせられるものがあります。

関連情報:集団自決跡地   白玉の塔



渡嘉敷にも座間味にも、戦争当時散っていった人達を祀る慰霊塔が建てられています。

今は綺麗な海でシーズンにはにぎわう平和な島ですが、戦争当時の名残が今でも見受けられる事があります。
渡嘉敷島の阿波連にあるキャンプ場に入ると、入り口の近くに半分地面に埋まった金属の手漕ぎボートを裏返したようなものがあります。
 管理人さんに聞くと、戦争の時の飛行機の燃料タンクの残骸だそうで、今はちょっとした腰掛け代わりになっていたりもします。
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