
規模は仲宗根豊見親の墓と同じくらいですが、外見の様子は大分異なります。
前面は沖縄本島では良く見慣れたような石組みで、2段に作られていて、その上に低い一段が乗っているようなつくりで、特に面を平滑に加工したような跡も見られませんでした。
残念ながら前庭は、ほとんど雑草で覆われていて、近くに行ってみるのはためらわれる様な状況でした。

1500年、八重山のオヤケアカハチの乱の鎮圧の際に、首里王府軍の先導をつとめた仲宗根豊見親の三男・知利真良豊見親の墓として知られています。知利真良豊見親は、オヤケアカハチの乱に父とともに従軍、のち次男祭金が4年在勤したあとをうけて八重山顕職となり、彼の地で没したと伝えられています。近接する仲宗根豊見親の墓とともに宮古在来の墓「みゃーか」から横穴式にうつる中間様式を示しています。ツンプン(ヒンプン)の跡をとどめている所から、、俗に「ツンプン墓」とも呼ばれています。保存状態がよく、墓の形の変遷、石工技術を知る上でも貴重な墳墓です。前庭部を石垣で囲み、墓室外面は切石が三段に積まれ、上端には石柱列が設けられています。この墓は平良頭職をつとめ、杣山惣主取でもあった宮金氏寛富が1750年ごろ築造したと伝えられています。その子孫は宮古では宮金氏、八重山では長栄氏渡渉しています。
(2006年10月)
関連情報:
人頭税石 仲宗根豊見親の墓 漲水御嶽