宮古の中心平良に近い史跡

仲宗根豊見親の墓

宮古島イメージ
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 宮古島の中心、平良の海に近い道を北上していくと、いくつかの史跡が点在する地域を通ります。
ここもその中の一つ。歴史的背景については別のページで詳しく触れる事にして、仲宗根豊見親の墓の近くにある説明のプレートに書かれた内容を一番下に転記しておきます。

仲宗根豊見親の墓案内仲宗根豊見親の墓井戸
アントマ墓

仲宗根豊見親の墓地図
仲宗根豊見親の墓
仲宗根豊見親の墓横 一見すると、ちょうどミニサイズのインカのピラミッドを思わせるような緻密な階段構造の外観は、なかなか迫力のあるものです。沖縄本島でも大型の墓はありますが、このような構造のものは見た事がありませんでした。
墓地内には階段から降りていく井戸も作られていて、今も水をたたえています。
 ただ、残念なのは写真でもお解かりのように草が密生していて見学のために入る事も大変な状態。ここだけでなく、この一帯の史跡に共通する事でした。

近くにある一門の後妻を祀ったといわれるアントマ墓は、木々に覆われる寸前の状態です。
 早目にしっかりした管理が望まれます。

15世紀末から16世紀初めにかけて、宮古を支配していた仲宗根豊見親が、父親の真誉之子豊見親の霊を弔うために建造したと伝えられています。 墓の構造は、宮古在来の「みゃーか」の形式と、沖縄本島の形式を取り入れた折衷の形となっています。 この時期における宮古と沖縄本島との石造技術の交流を示す墳墓です。 外観は前庭部を石垣で囲み、墓室外面は階段状に仕上げ、上端に石柱列を設けて有ります。 内部は円形になっていて、直径6m高さ2m余りのほぼ10畳ほどの広さで、中央に厚さ46cmの石垣が天井まで築かれ前後2室に仕切られています。手前は棺ならびに副葬品、奥には洗骨後の骨カメの安置所です。仕切中央は幅1,27m高さ1,70mの出入り口になっており、かつては観音開きの扉がついていたことを示す上下に各2箇所ずつとどめています。宮古の支配者としての仲宗根豊見親親は1500年、八重山のオヤケアカハチの乱の鎮圧に首里王府軍の先導をつとめ、また島内においては井戸、道路、橋梁等の開さくをすすめたことで知られています。
(2006年10月)
関連情報: 知利真良豊見親の墓 人頭税石 漲水御嶽 

※宮古では、この一帯を歴史・文化ロード・平良綾道として観光のポイントにしていきたい考えがあるようですが、現実問題として管理が追いついていない状態でした。
  大切な文化遺産ですから、何もそれに手を加えるという必要は全く無いと思いますが、それを保全するためにも的確な管理体制を早く確立してほしいと思います。

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