道路のすぐ脇に何気なく立っている陽石のようなもので、俗に人頭税石とか賦測石(ふばかりいし)といわれています。しかし、この石が何だったのか、と言うことに関しては、諸説があって今でも不可解な所の多いものです。
薩摩藩が1609年に琉球王国を侵略し、1876年の琉球処分までの約270年もの間実質支配を続けていました。そして琉球王府に厳しい税を要求し、1637年、琉球王府は宮古八重山地方に重い人頭税を課すことになります。
高さ143cmと言われ、ちょうど私の脇くらいのこの石柱の高さに身長が達すると、男性は 粟等、女性は上布の納税が義務付けられたと言われていますが、これは大正時代に民俗学者の柳田國男氏が「海南小記」という本に書いたことから有名になった説です。
しかしながら宮古島には1714年頃から正確な戸籍が記録されていたらしく、本当の所は、それ以前も役人が成人を見立てていて、それ以降は年齢を基準にして15歳 から50歳までの人々に人頭税を課税していたと言う説が有力です。
他の説としては、霊石信仰の対象であったとか陽石としてあがめられていたとかのものがあるようです。
ここは、何十年か前に海岸側が埋め立てられる以前にはごく海の近くに位置していたらしく、この事は何であったかを推測する手がかりの一つになるかもしれません。

真実がどうであったにしろ過酷な重税に人々が悩まされていたことは史実で、それを忘れないため、そして将来もそのような事がないように記念碑としてここに人頭税石があることは、良いことだと思います。(2006年10月)
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