沖縄の歴史・察度王統

沖縄の歴史イメージ画像

察度王統

1349年、西威王は若くして病死し、周囲からは後継に察度を推す声が上がり、彼の母も抗しきれずに翌年、察度は王位に就くことになりました。
これが察度王統の始まりです。
1372年、察度王は当時の中国である明と関係を持つことが、勢力を維持拡張するために有効であると考え、貢物を載せた進貢船の第一号を明に派遣し、中山王の称号と暦や船をもらい帰ってきました。 以降、明国との友好関係を長く続けることになったのです。
昔の那覇近郊地図 その後、多くの中国人が沖縄来るようになり、久米村(現在の那覇で、当時は島になっていました。)に住み着くようになりました。彼らは久米36姓と呼ばれて、後まで活躍します。
この中に船を作る技術者もいて、爬龍船を造り、明から帰国した留学生達と競争するようになったのが、ハーリーの始まりといわれています。ハーリー船  
明朝は1383年国名を「琉球」と命名、和名のおきなわより一般的な呼び名になってきました。
このころ、日本では室町幕府が政権を握り、南北朝も統合されて室町文化が盛隆を極めていた頃です。


さて、察度王は首里に王城を構えて75歳迄がんばっていたが、後年は驕りが見られたようで、評判はあまり芳しくありませんでした。
2代目は武寧王が41歳で即位。
この時に初めて明の冊封使を迎えました。 これは、明国が即位承認するための立会いの使者の事です。
冊封使想像図 彼はなかなかの政治手腕を発揮して、南山王を追放したり明との政治的つながりを強めたりしましたが、傲慢な言動から人民、各地の按司から孤立していきました。

この頃、南部の佐敷の按司、巴志が、大量の鉄を輸入して農具を作らせて農民に分け与えたことなどで評判になっていて、各地の按司達に推されて1405年武寧王のいる中山を占拠、武寧王は城を出てそのままいずこへか去っていきました。

このように察度王統は短い期間で終わりを告げてしまったのです。

Copyright ©Okinawa information IMA All right reserved | Since Sep.12th.1999 | 更新: 2016-06-16