琉球処分
1871年、日本で廃藩置県が行われ、それに伴い琉球は鹿児島県の管轄下に置かれるようになります。
その後、続いていた琉球の王朝制度が問題になり始め、1872年、琉球国から琉球藩に。尚泰王は華族になり、琉球藩王という地位になって外国との交渉を禁止されました。清国への朝貢は差し止め、王は東京に住まう事。そして首里城は開け渡し王府は解体する事、などがその内容です。
1879年、政府は500名弱の部隊で首里城に乗り込み沖縄県設置を宣言。 3月31日には尚泰王が首里城を明渡し沖縄を離れる事になり、長い間続いた琉球王国独自の歴史は、ここで強制的に幕を閉ざされてしまった訳です。
この一連の事件を
琉球処分と呼びます。
日本の県としての沖縄
その後沖縄県民が他の県の県民と同じ国民としての権利を得るまでには、時間がかかりました。
沖縄県各地で旧制度廃止や他県との不平等などの制度改善を求めて県庁職員だった
謝花昇を中心に運動が盛り上がり、地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが、本土から10~25年遅れて施行されました。
その後、日本政府による沖縄県の皇民化計画は進められ、1890年には皇国史観を養うことを目的に波上宮を官幣小社に。沖縄各所にあった御獄は村社として整理され、拝殿や鳥居をつくり神道の布教が行われて、1898年には徴兵令も施行されました。
1920年、南洋諸島が日本の委任統治になると、多くの沖縄県民が移住し、ハワイやブラジルなどへの移民が盛んだったのもこの頃です。
1930年代には世界恐慌による大不況と農産物の凶作がかさなり飢饉状態になりました。食べ物が無くソテツの実食べたりもしたが、毒抜きができずに死亡する県民もでて
ソテツ地獄と呼ばれていました。
第二次大戦と沖縄
1945年、沖縄は太平洋戦争に巻き込まれて本土決戦のための捨石と位置付けられ、国内唯一の大規模な地上戦が行われ、多くの犠牲者を出しました。
ウチナーンチュも皇国史観を叩き込まれ、軍属の偏向教育によりアメリカは鬼だ!人間じゃない!と思い込み、捕虜になるより自決を選ぶ県民が多くいたそうです。

怖くて逃げ出すような者は、日本軍の兵隊により射殺されたケースもまれではなかったようです。
自分の子供を殴り殺してから、自殺する親。
手榴弾で集団自決した学徒の話。
沖縄では、このような体験を今でも語りつづけるお年寄りがいます。
沖縄戦で戦死した日本 188136人のなかで、沖縄県出身者が122228人(一般人94,000人、軍人・軍属28,228人)といわれています。 (※沖縄県平和祈念資料館データー )。これには、餓死したり病死した数は含まれておらず、戦争のために亡くなった方の数は、これをかなり上回ったものと思われます。
戦後の沖縄と米国の統治
終戦後、約30万人の県民はアメリカ軍の収容所で運搬作業などをさせられましたが、食料等の配給は受けていました。
1945年になると、ようやく人々は自分達の村に帰れるようになりましたがどこも焼け野原の状態で、復興には多大な努力が必要でした。
県民が収容所にいる間に、アメリカ軍は広大な土地を軍用地として接収していて、これが現在もそのまま残る米軍基地となったわけです。
1948年に通貨がB円と呼ばれる軍票に統一された頃、ようやく人々の生活にも活気が見え始めてきました。
世界情勢が緊迫してくると、アメリカ軍は沖縄を太平洋の要石として位置付け、より基地機能の拡大をはかりました。
県民は、強引な土地使用の条件の改善を求めて「金は一時、土地は万年」の合言葉で島ぐるみの闘争を行い、1958年には絶対的権力者の米軍から譲歩を勝ち取りました。
この事が、復帰運動につながっていきます。
1970年・コザ暴動:米兵が連続して起こした2件の交通事故を契機にコザ暴動が発生