沖縄の歴史・第一尚氏

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第一尚氏

 巴志は、まず父親の思紹を王位につけました。
1416年、諸国の按司と連合を結び北山王を攻めてこれを滅ぼし、1422年には父の跡をついで中山王になり冊封使を迎えて、この時初めて明より王冠と冠服を送られ尚巴志と名乗りました。
琉球国の王冠 現在もこの王冠は文化遺産として残っています。
1429年には南山をも手中に収め、三山を統一、初めて琉球全体の王となったのです。
貿易により経済的にも栄え、社会資本に投資して本島を縦断する道路を開き、宿場も置いて早馬による通信網を確保しました。
懐機(明人)をこの王朝の国相に命じ、彼の働きで、首里の琉潭池等の設備も整ってきました。 尚巴志は68歳まで活躍してこの世を去りました。
3代目尚忠、4代目尚思達、5代目は思達の叔父にあたる金福が継ぎました。
昔の那覇と長虹堤尚金福は、その当時離れ島だった那覇と首里の行き来を便利にする長虹堤を懐機に命じて造らせました。
1451年には完成し、安里川、久茂地川を横断して那覇まで地続きになり、那覇が都市化することになったのです。
しかし、わずか在位4年で尚金福は死亡。 順調に続くかに見えた尚家は、後継問題で内紛を起こすことになるのです。
尚金福が56歳で死んだ後、その子供の志魯が王位を継ごうとしたのですが、尚金福の弟である布里も権力をほしがり、家人たちも両派に分かれて激しい勢力争いになりました。 布里はついに武力に訴えて、これに対する志魯の側も受けて立ち、首里城内にも戦火が広がりました。
結局この戦いは両者が乱戦で死亡してしまい、幕を閉じることになります。
尚巴志の第七子に泰久なる人物がいて、金丸(泰久が按司立った頃の家来頭)、阿摩和利(勝連の按司)の努力により第六代の王位につくのです。
彼はなかなかの傑物で、京都臨済宗の僧を招いて18の寺を立て、学問も奨励しました。
しかし、阿摩和利、金丸ともに天下への野望を心の奥に潜めていたのかもしれません。

まず、阿摩和利は、巴志とともに王朝成立の力になった中城の護左丸が、兵力を増強していて不穏な動きがある旨を泰久に進言、自分が大将となり中城城に奇襲をかけました。 護左丸は野心などなかったようで、月見の宴の最中襲われて妻子とともに自害してしまいました。
阿摩和利はその後も自派の按司をまとめて、ついには首里城に攻め寄せたのですが、城側の警備陣が優勢で退けられ、大城賢雄を大将とした追っ手が阿摩和利の勝連城に追撃し、大掛かりな戦の末に阿摩和利は殺されて、名実ともに三山が泰久のもとで統一されたのでした。
※このあたりの成り行きに関しては、色々な異説が有り現在もはっきりとした真相はわかっていません。

★中城、勝連ともに現在も城址をとどめており、時間があったら来沖の時に回ってみるのも面白いかと思います。現在は両方ともに公園になっていて、人々の憩いの場になっています。
 この頃の戦といえばヒヤーと呼ばれていた小火器が使われていました。
種子島に鉄砲が伝わったのは1543年ですから、この乱のおきた1458年には沖縄ではもう実用的に鉄砲を扱っていたことになり、明朝との交流の深さが解ります。
ヒヤー(火矢)=鉄砲の想像図      ヒヤー(火矢)=鉄砲の想像図百十踏揚(ももとふみあがり)イメージ
 ところで、これらの戦いの話は今でも劇などで伝えられており、泰久王の娘で政変に翻弄された絶世の美女、百十踏揚(ももとふみあがり)などもこの話に絡んで登場します。
彼女は霊力も備えたノロでもあったといわれています。


 
 泰久王は、その後も活躍したが1461年死亡して彼の三男尚徳が後を継ぎました。そのとき21歳。
喜界が島への遠征、足利将軍に謁見後、火砲を総門の外で放ち、人々を驚かせるなど勇猛では有ったが、暴虐でも評判になり金丸の意見も聞き入れずにすき放題の振る舞いを行っていたようです。
1467年、彼は若くして病死したといわれています。

ですが、別説では久高島のノロとの恋にとらわれ、長居している間に首里城で革命が起こりそれを知って自害したと言う説も伝わっています。

このようにして7代にわたる第一尚氏は、64年という短い期間で幕を閉じてしまいました。


    沖縄県立博物館蔵 昔の那覇周辺の図
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