沖縄の歴史・第二尚氏(1)

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第二尚氏

 按司達が集まり、尚徳と意見が合わずに西原に引退していた金丸が安里親方をはじめとする人々に推されました。はじめは辞退していた彼も、ついに王位につく事を認めました。  
彼は尚徳の子供として尚円と名乗り冊封をうけ、これが1879年の廃藩置県まで410年にわたって続く第二尚王統の始まりです。 尚円王は、第一尚氏のたたりを恐れて、供養のために崇元寺を建立しました。崇元寺山門跡 その山門は、今でも那覇の街に残っています。

 自分達の正当性を確立するために、「天子は天命によって天下を治めるが、不徳の者が出て国民に圧制を加えるならば、天は別の有徳者に天命を下し天子とする。」とする中国の易姓革命の思想を利用して、第二尚氏の天命説をのべて、その地位を確固たる物にしていきました。
1476年、尚円王はこれから本格的な王朝をと言う62歳のときにこの世を去りました。
二代目は、その弟である宣威が後を継ぎましたが、長く続きませんでした。 其の裏には、ノロ(神に仕える女性)の勢力の拡大があります。 ノロの最高地位である聞得大君が王と同等の権力を持つようになってきました。
聞得大君の就任式は本島南部の斎場御嶽で行われ、その場所は男子禁制となり王とても立ち入る事が出来ない場所でした。
現在でも、本島最高の霊場として祈りに来る人が多くいて世界遺産にも指定されています。

 尚円王の後妻、オギヤカは、自分の子供こそ王にふさわしいと考えて、聞得大君であった娘とはかり、絶大な力を持っていたその神託を利用しました。
天神君手擦りという新しい王が天下る神を拝む儀式の最中「首里おはる てだこが おもいこの遊び 見もん…。」 という、尚円の子供、尚真をたたえるオモロ歌を告げたのです。神託の内容は、今の王より尚真が王にふさわしいと言うものでした。
これによって宣威は神を恐れて退位。
尚真王が13歳で3代目の王位につき、50年という長い間琉球をおさめていく事になるのです。
1500年には、八重山で勢力を誇っていたオヤケ赤蜂を46隻の軍船と3000人の兵で出兵して下し、1522年には与那国の鬼虎を宮古の軍に討ち取らせて先島諸島全域を統一し、安定した政権を実現しました。
赤蜂を討った翌年には、歴代の王が眠る墓所、玉陵(タマウドン)を造らせました。
今でも歴史的観光の名所として世界遺産にも指定され、首里に威容を誇っております。
この他にも、尚家菩提寺の円覚寺、そのそばに円鑑池などを造らせました。 このように目に見える業績だけではなく、
★武器類はすべて国庫に収めさせ、非常の際にだけ使用する。
★地方の按司達を首里に集めて住まわす。
★鉢巻の色により階級差別を明確にする。
★明国への進貢を一年に一回とし、交易により財政を豊かにする。
などの政策を施行して、強固な中央集権を実現していったのです。
琉球は那覇を中心に世界各地との交易も広げ、ますます栄えていきました。  宗教的にも、前記の寺院を建築した事の他に、自分の妹を巫女の最高位・聞得大君にして、オオアムシラレ、ノロ、オコデをその配下におき、ピラミット型の組織を確立したりもしました。
しかし、50年の政権を保った尚真王は、1526年62歳で他界します。
彼の業績は、他にも殉死を禁ずる命令を出すなど色々あり、首里城の百浦添欄干の銘に刻まれております。  
4代目尚清王も、なかなかのつわものだった様で、14歳の美女、マセニガネを宮中に迎え、1537年には奄美大島で起こった反乱を鎮圧し、首里城の防備を固め幾重にもして外敵に備えていました。彼が59歳で病死のあと、ちょっとしたいざこざがあったものの、1556年に5代目尚元王が王位につきます。

 日本では織田信長が桶狭間の戦いに出陣する5年位前のことです。
この即位のときに、力になった新城親方が、 きょうのふくらしや なうにぎやなたてる。 (今日の誇らしい気持ちを何にたとえようか) ちぶでおる はなぬちゆきやたるごつ (花の蕾が露を受けて開くような)・・・ と謡って喜んだと言われています。この歌は、現在でもカギヤデフとして知られていて、おめでたい祝いの席の幕開けに必ずといってよいほど歌われています。

 尚元王はまだ30前ではあったが、倭寇が那覇を目指してきたものを撃退。島津藩との外交も無難にこなし、奄美大島の再討伐などで圧勝したが、1572年、45歳にて病死してしまいました。
後は尚永王が15歳で継ぎます。 守礼門の上にある「守礼之邦」の額が掲げられたのは、彼の時代でした。
冊封使が尚永王をたたえ、琉球こそ主礼の国であると言わしめたことを記念したものといわれています。
守礼の門にある額 しかし、日本で本能寺の変があり、秀吉が天下を取った後から、薩摩を通して琉球を日本に帰属させようとする動きが徐々に表面化していきます。尚永王はその後1588年、30歳の若さでこの世を去ります。   
 翌年に7代目尚寧王が26歳で即位。
日本では豊臣秀吉が政権を把握。1591年には朝鮮出兵が決まり、薩摩藩を通して琉球にも兵士の食料を出すようにとの要請がなされました。 琉球王朝では、これにどう対応するかを模索していたが、謝名親方がこれに順ずる事を強行に反対しました。このようにして時間が過ぎ、薩摩藩側からは催促の連絡が来たりしていました。
★このへんの事は、NHKドラマ「琉球の風」が、わりと史実に忠実に物語として見せてくれています。レンタルビデオで見つけたら、一度ご覧下さい。

 進貢船に乗っていた野口総管がサツマイモの苗を持ち帰り、琉球でも根付かせたのもこの頃の事です。

薩摩藩の琉球侵略


 日本では、政権が徳川幕府に変わっていました。
1609年、薩摩の島津家久から、尚寧王あてに家康に臣下の礼を尽くしに来るようにと言う書状が届きましたが、この返事に王は即応できかねていました。
3月、薩摩の軍勢が今帰仁の浜に上陸。
琉球王朝は大した抵抗も出来ないまま、首里城に迫られて4月4日に降伏。王は従者百余名とともに首里城を後にして薩摩、江戸へと謝罪の旅に出る事になります。  
1661年、謝名親方が薩摩で斬首の刑に処せられますが、尚寧王はその一行とともに沖縄に帰ってきます。
それからは薩摩藩の琉球に対する干渉が厳しくなり、王に対しても掟15条と言う誓約書を渡され、それに従うよう強制させられます。  
尚寧王は、耐えて内政を充実し琉球国の再建復興を図るための政策を実行していきますが、1620年、57歳で他界します。
 
遺言で、自分は薩摩に敗れた王だから、歴代の墓地たる玉陵に入ることは遠慮したい。 出来る事なら浦添にある英祖王の墓の横にでも葬るようにと言い残しました。(別説では自分の生まれた浦添に戻ったとも言われています。)
彼は歴代の琉球王で一番波乱にとんだ人生を送った王かもしれません。
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