第二尚氏ー薩摩による龍急進略後
翌年、尚永王の弟の子供、
尚豊王が王位を継ぎます。
彼も、内政の整備に力を注ぐ政策を実行していきます。この頃に、さとうきび(ウージー)から黒砂糖を作る産業が盛んになり、薩摩からの圧迫で苦しかった財政事情を助ける働きをしました。さとうきびは、現在にいたるまで沖縄の産品として生産されつづけています。
★さとうきびの事を沖縄ではウージーと呼んでいて、那覇の街でさえ空き地にウージー畑が散見されます。市外を離れると、あちこちがウージー畑。県の特産品として生産されています。
次の王は
尚賢王でしたが、24歳にて他界してしまいます。
そして、10代目の王は
尚質王が継ぐ事になります。
彼の代に、琉球初の正史、
中山世鑑がつくられました。

当時、羽地按司になっていた向象賢(別名:羽地朝秀)が主になって資料の収集をし、作成したと言われています。王家の系統を明らかにする事により、政権の維持を考えたために真実と異なる事もかかれていますが、彼が日琉同祖論者だった事、古事記、日本書紀などにも同様な面があることなどを考えると、その奥の真実を考察するにつけなかなか興味深い物があります。
1662年、後に
北谷事件と呼ばれる事件が起こります。
清国に対する貢物を載せた船が、暴風雨にあって何とか港に入りましたが、この騒動の中で乗組員達が貢物を盗み去ってしまい、薩摩藩の命で責任者の北谷親方が斬首の刑に処せられます。この事件の詳細は、いまだに良く解りませんが、当時摂政であった具志川王子も辞職する事になりました。
摂政象賢は、聞得大君を王妃の下に置くように政令を発し、神人達の自由な振る舞いを牽制し、質素倹約令も実行して国民の負担の軽減に努め、農村の振興にも何かと心配りをしていきました。
尚質王が亡くなり、若い尚貞王の時代になると、象賢はやがて職を去ります。
尚貞王は、1682年の頃各地に点在した窯場を壺屋に集めて陶業の進行を図ります。
現在でも、那覇の壺屋には多くの焼き物やが軒を並べ、登り窯の跡などもあり、当時の繁栄を時間を超えて垣間見る事が出来ます。
ただ、最近では住宅が密集してきたので、焼き物を焼くには環境的に無理が生じてきたために、窯場は読谷村のやちむんの里の方に移っています。
尚貞は65歳で1709年に生涯を閉じました。
後に
尚益王が後を継ぎますが、わずか3年で病死してしまいます。
この年は、琉球を大飢饉が襲いました。旱魃、台風などの自然の猛威は、20万人くらいいた琉球の国民のうち3000人位の人々を餓死に追いやりました。
13代は
尚敬王が継ぐ事になります。摂政
蔡温の働きもあり、この時代は繁栄していきます。
尚敬は1713年に王座に付き、蔡温とともに町に市を増やして街に活気をあふれさせていきました。また、踊りの中にせりふを入れた
組踊りもこの頃に出来上がり、現在まで受け継がれております。
又、特筆すべきは、1732年に
御教条という10数条の人の道を説いたものを公布した事です。
儒教などに基づいた忠孝を中心としたものでした。
この時代に、琉歌の歌人、
恩納ナビが出てきて活躍したのも見逃せません。
★ところで、沖縄には毛あしびという習慣がありました。
草原や森に若い男女が集まり、三味線を引きながら歌を歌い互いの思いを告げる遊びで、内地の歌垣とよく似ています。今で言う合コン?
1752年、尚敬王が亡くなり、
尚穆王位を継ぎます。 この時代は大した変化はありませんでした。
1794年、病死した尚穆の後に、
尚温王が即位しました。
彼もまた1802年には没し、
尚成王が即位しますが、一年も経たないうちに病死してしまいます。
めまぐるしく王が変わり、1804年には17代目
尚灝王が後を継ぐ事になります。
(日本では11代徳川将軍の頃にあたります。 )
そして、この時代にはイギリスをはじめ、西洋の各国の船が琉球をおとづれることになります。