八重山には、琉球本島とは又違った歴史が有ります。
どちらかというと、昔は以南の文化の影響を強く受けていたようですが、古い時代に関しては文献などの資料はほとんど残っていません。

「日本書紀に太朝臣遠建治が奄美(あまみ)、信覚(しがき=いしがき)、球美(くみ=西表か久米島?)の島人52人を率いて太宰府に入貢した。」と書かれ、八重山地方が初めて日本の歴史に登場しました。
琉球王国では、1390年の察度王統の時代に中山へ進貢したという記載があります。
また、1477年には与那国島に朝鮮人が漂着した時の様子が朝鮮の歴史書である李朝実録成宗10年条に記されています。
それらから推測すると、どうやら昔の八重山地方は、争い事や犯罪の少ない島々だったようです。
オケヤアカハチの乱:波照間島で生まれたオケヤアカハチが石垣島の大浜村に移り、そして、石垣村の豪族である長田大主の妹と結婚し、豪族として勢力を広げていきます。
しかし、1500年にオケヤアカハチの乱として知られる、宮古の豪族であった仲宗根豊見親と琉球王国の連合軍との戦いに敗れ、討ち取られてしまいました。
この戦の原因は、八重山の伝わる古来からの神への信仰をを琉球王府に禁止されたからとか、琉球王府への貢納を拒否したからとか、宮古の仲宗根豊見親との勢力争いに琉球王府が介入したなどの諸説があり、今

となっては定かでは有りませんが、それ以降琉球王国の支配下に入ったわけです。
サンアイイソバ :八重山でも石垣と離れている与那国島では、サンアイイソバといわれる女性の首長が支配していたようですが、1522年(一説には1510年)にはこれも琉球王国の支配下におかれて、八重山諸島全域は名実共に琉球王国の一部分となったわけです。
人頭税 :1609年に九州の薩摩藩が琉球に侵入し、沖縄を支配し始めました。琉球王府が過酷で知られているを人頭税導入したのもそれからまもなくで、八重山の人々も重税に苦しめられました。
明和大津波 :八重山、宮古を襲った1771年の大津波は、八重山だけで家屋の倒壊約2000棟犠牲者約9000人にも及んだといわれています。
ロバートバウン号事件 :1852年2月、厦門(アモイ)で集められた400人余りの苦力(クーリー)が、米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中、辮髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねてついに蜂起して船長ら7人を打ち殺しました。
船はその後台湾に向かいましたが石垣島沖に座礁、380人が島に上陸。 石垣の人々は仮小屋を建て、彼らを収容しました。 しかし米国と英国の海軍が三回にわたり来島、砲撃を加え、武装兵が上陸してきびしく捜索を行いました。 中国人達は山中に逃亡しましたが、銃撃、逮捕され、自殺者、病没者も続出したとの事です。 琉球王朝と蔵元は人道的に対応、その後事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、翌1853年9月、琉球側が船二隻を仕立て、生存者172人を福州に送還。 ここで亡くなられた中国人を祭ったのが石垣島にある唐人墓です。
戦争マラリア :太平洋戦争時には台湾へ疎開する人もいましたが、残った人々は島内の山地へ疎開。その結果マラリアを媒介するハマダラ蚊の被害で2500名以上の死者が出たそうです。波照間の人達で西表に疎開した人達もマラリアで島民の三分の一近くが亡くなられてという事です。
大戦が終わると、ここ八重山には米軍統治のもとに八重山民政府が置かれました。
その後琉球政府に統合され、1972年沖縄県として日本復帰を果して今に至ります。